多様な神経シグナルに応答するアストロサイト、学習や記憶への詳細な関連は未解明
理化学研究所は10月16日、「強い印象のある出来事はよく覚えている」「繰り返したことは忘れにくい」といった身近な現象について、その背後にある脳の仕組みが、神経細胞ではなく、その隙間を埋めるアストロサイトという意外な細胞によって支えられていることを発見したと発表した。この研究は、同研究所脳神経科学研究センター グリア-神経回路動態研究チームの長井淳チームディレクター、出羽健一基礎科学特別研究員、加瀬田晃大研究パートタイマーⅠ(日本学術振興会特別研究員DC2)、九州大学 生体防御医学研究所の増田隆博教授らの共同研究グループによるもの。研究成果は、「Nature」オンライン版に掲載されている。

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ヒトは日々多くの出来事を経験しているが、その全てが記憶として残るわけではない。特に「強い感情を伴う体験」や「繰り返された体験」が記憶に残りやすいことはよく知られており、こうした記憶は長期的な行動や心理状態に強い影響を与える。
一方で、脳がどの体験を選び、安定化して保存するのか、その仕組みは十分に解明されていない。これまでの研究により、記憶の痕跡は特定の神経細胞群(エングラム神経細胞)に残り、情報として保存されることが明らかになってきた。しかし、神経細胞の活動だけでは記憶の安定化メカニズムを完全に説明することは困難だ。そんな中、神経細胞と密接に連携して情報処理に関与するグリア細胞の一種「アストロサイト」は多様な神経シグナルに応答し、分子状態を柔軟に変化させる性質が近年注目を集めている。ただ、いつ、どこで、どのようにアストロサイトが記憶に関連する神経シグナルに応答し、学習や記憶に貢献しているのか、その実態は十分に理解されていなかった。
アストロサイトのFos遺伝子発現、脳全体を細胞単位で可視化記憶に関与する細胞では、Fos遺伝子の発現が体験直後に誘導されることが知られている。これまでFosは主に神経細胞で研究されてきたが、アストロサイトなど非神経細胞における発現やその意義については不明な点が多く残されていた。そこで研究グループは今回、体験に応じてFosを発現するアストロサイトに着目し、それらを網羅的に可視化・解析するための新たな技術を開発した。
具体的には、1)Cre-loxPシステムを用いて作製した、アストロサイト特異的に機能するCre依存性アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクター、2)Fos発現に応じてCre酵素を誘導できる遺伝子改変マウス(Fos-iCreERT2)、3)AAVベクターを全脳へと効率的に送達するためのPHP.eBカプシド、4)脳全体を1細胞レベルで迅速に撮像できる高解像度イメージング技術という4つの技術要素を統合した。
これらを組み合わせることで、「体験によってFosを発現したアストロサイトの集団」(アストロサイト・アンサンブル)を、全脳スケールかつ細胞レベルで可視化・解析することに初めて成功した。
アストロサイト・アンサンブルは「繰り返される恐怖体験の想起」に対応していると判明
「強い感情を伴う体験」として確立した実験方法として、マウスに恐怖条件づけ文脈課題(特定の場所と静電気ショックを結び付ける体験=1回目の体験)を用いた。さらに、数日後に再び特定の場所にマウスを連れてくることで、その体験を「思い出す(想起する体験=2回目の体験)」ときの脳内アストロサイトのFos発現を解析した。
結果として、思い出したときにのみFosを発現するアストロサイトの集団(アストロサイト・アンサンブル)が、扁桃体を中心とした複数の脳領域にわたって見つかった。これらのアストロサイトでは、初回の恐怖体験時にはほとんどFosの発現が観察されなかった。つまり、このアストロサイト・アンサンブルは単なる恐怖という刺激に対してではなく、「繰り返される恐怖体験の想起」に対応していることが明らかになった。
アストロサイトはノルアドレナリン受容体を増やし、次の体験のための準備状態に入る
次に、なぜアストロサイトは1回目の体験ではなく2回目に強く応答するのかを詳細に調べるため、1細胞RNAシーケンスおよびRNAscopeという技術を用いて、初回の体験前後および再体験前後のアストロサイトの変化を分子レベルで解析した。
その結果、初回の恐怖体験後、アストロサイトは数時間~数日にかけてノルアドレナリン受容体(α1およびβ1受容体)を増やし、来るべき強い感情を伴う2回目の体験のために備える「準備状態」に入ることが判明した。ノルアドレナリン受容体の発現量と比例して、後の再体験時におけるFos発現アストロサイト(アストロサイト・アンサンブル)の数も変化することが明らかになった。この準備状態にあるアストロサイトは特に、再体験時にノルアドレナリン神経活動(感情の情報)とエングラム神経活動(詳細な記憶の情報)を同時に感知することで、分子スイッチオン(Fos発現)状態に切り替わることがわかった。
アストロサイトが「どの記憶を選び、残すか」という役割を果たしていることを確認
最後に、これらのアストロサイト・アンサンブルの機能増強・抑制が恐怖記憶に与える影響を検証した。まず、アストロサイト・アンサンブルの機能を抑制するツールとして、新たに開発したGPCRシグナル抑制ツールiβARK2をアストロサイト・アンサンブルに導入したところ、恐怖記憶が不安定になることが示された。さらに、アストロサイトのβ1受容体を増加させるノルアドレナリン受容体を強制発現するツール(Adrb1-OE)をマウス扁桃体へ導入したところ、アストロサイト・アンサンブルの機能が増強され、恐怖記憶を思い出すごとに、強く安定化される様子が観察された。このマウスは、恐怖体験をしていない場所でもすくみ行動(すなわち恐怖記憶の想起、PTSD様の症状)を示すことがわかった。これらの結果は、再体験時のアストロサイト・アンサンブルが記憶の「安定性(思い出しやすさ)」を調節できる細胞であることを示している。
同研究は、長らく隙間を埋めているのり(グルー=グリア)のような細胞と考えられていたグリアの一種アストロサイトが、「どの記憶を選び、残すか」という記憶の本質に迫る役割を果たしていることを示し、脳科学や心理学、人工知能分野に新たな視点をもたらす成果と言える。
アストロサイトが体験の間を橋渡しすることで、記憶の選別と長期保存を担う
今回の研究により、神経細胞だけでなくアストロサイトにも記憶の痕跡が形成されることを初めて明らかにした。この記憶にかかわるアストロサイトの集団、すなわち「アストロサイト・アンサンブル」は、神経細胞が担う具体的な記憶内容や感情の情報とは異なり、「強い感情を伴う体験」や「繰り返された体験」を感知し、次に類似の出来事が起こった際に分子スイッチを入れる「準備状態」として存在している。情報を直接保持するのではなく、記憶を選別し安定化させる「条件つき痕跡(eligibility trace)」として働く、新たな細胞基盤と言える。
この仕組みは、「間隔を空けた学習(spaced learning)」が記憶の定着に有効である理由を、細胞・分子レベルで説明する新たな手がかりと考えられる。例えば、一度の体験では記憶が定着しない場合でも、時間をおいて繰り返されることでアストロサイトが「準備状態」を維持し、再体験によって記憶が強化・安定化することが示唆される。これは、短時間に詰め込む集中学習(mass training)では得られにくい効果であり、アストロサイトが体験の間を橋渡しすることで、記憶の選別と長期保存を担っていることを意味する。このような特性は、学習科学や人工知能(AI)モデルへの応用にもつながる重要な知見である。
認知症などの病態モデルにおけるアストロサイト・アンサンブルの機能解明も目指す
また、条件つき痕跡は、脳が全ての情報を無制限に保存するのではなく、「必要な記憶だけを選び残す」ための仕組みとして機能し、過剰な情報保管を防いでいる。このような情報選別によって、アストロサイトは神経細胞だけでは担いきれない「長期的かつ文脈依存的な情報統合」を可能にし、脳がエネルギー効率に優れた情報処理系として進化する過程で、重要な役割を果たしてきた可能性が示唆される。
「今後は、うれしい思い出や社会的記憶など日常的な記憶の選別に加え、ストレス関連疾患、PTSD、老化、認知症などの病態モデルにおいて、アストロサイト・アンサンブルがどのように機能しているかを明らかにすることを目指す」と、研究グループは述べている。
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