先進国における比較的低水準の大気汚染も、労働供給に影響を与える?
広島大学は7月28日、微小粒子状物質(PM2.5)による大気汚染が、日本において労働供給量や出勤日数を低下させていることを、2013〜2017年の労働統計と大気環境観測データをもとに実証したと発表した。この研究は、同大大学院人間社会科学研究科の山田大地准教授と東京大学大学院総合文化研究科の成田大樹教授らの研究グループによるもの。研究成果は、「Journal of Environmental Economics and Management」に掲載されている。
大気汚染は重大な環境問題の一つであり、直接の健康被害は甚大である。加えて、健康被害がさらに経済活動に影響を与えるという形で、間接的な社会的・経済的被害をもたらしうることが指摘されてきた。労働供給への影響はその一つで、例えば、労働者自身の体調不良あるいは体調不良の家族の面倒をみるために労働時間が喪失される可能性がある。そのため、直接の健康被害だけでなく、間接的な社会的・経済的被害を踏まえた議論を行うことが求められるが、このような間接的影響については、疾病リスクの増加の有無に着目する従前の多くの研究では明らかにされていないところである。
また近年では、比較的低水準の大気汚染でも健康被害をもたらしうることが明らかになってきている。実際に世界保健機関(WHO)が2021年新ガイドラインで年平均PM2.5濃度の推奨上限値を5μg/m3に引き下げ、また欧米を中心に各国の規制基準値も同様に引き下げることが検討されるなど、低水準の大気汚染の影響は注目を集める論点である。しかし、新興工業国のような高水準の大気汚染と比較し、日本を含めた先進国の比較的低水準の大気汚染でも労働供給に影響を与えうるのかどうかは、これまでにはあまり分析がされてきていなかった。
月間平均PM2.5濃度が月間労働時間に与える影響を分析、2013~2017年データより
この研究では、コロナ禍以前の2013~2017年における、日本の事業所レベルの労働供給データと、市区町村レベルのPM2.5観測データを用いて、月間平均PM2.5濃度が月間労働時間に与える影響を分析した。このように実際の統計データを使用することで、人々の現実の行動に基づく影響評価が可能となる。ただし、単純にこれらのデータの間の相関関係を見ただけでは、大気汚染の労働供給への真の因果関係を導き出すことができるとは限らない。例えば、景気が良くなれば、生産活動が活発化することで大気汚染が増えるのと同時に、労働時間も延びる。すると大気汚染と労働時間の間に因果関係とは別の正の相関が生まれるかもしれない。そこでこの研究では、PM2.5水準の値のうち、逆転層と呼ばれる気象現象およびアジア大陸で発生した大気汚染物質が風に運ばれて日本に流れ込む「越境汚染」によって引き起こされた変化が、労働時間にどのような影響を与えるかを分析し、因果関係を明らかにした。逆転層とは、大気の中で地表付近の気温が上層の気温より低くなる現象(通常は高度が高いほど気温は低くなる)であり、これは地表の大気汚染水準を上昇させることが知られている。アジア大陸からの越境汚染は、日本の大気汚染の主要因の一つとなっているが、東シナ海や日本海などの経路上の風向きや雨の有無などの要因に依存する。これらは日本の各地のPM2.5濃度を上昇させる要因である一方で、逆転層は主に夜間に発生し、また越境汚染は海上・上空の気象状況に起因するため、日本の労働供給には直接の影響を与えないと考えられる。今回の研究では、これらの要因を利用し、固定効果モデルおよび固定効果操作変数モデルと呼ばれる統計学的・計量経済学的手法を用い、因果関係を導出した。
月間平均PM2.5濃度の1μg/m3上昇で、月間労働時間一人当たり約0.5時間減少
分析の結果、月間平均PM2.5濃度の1μg/m3の上昇で、月間労働時間が一人当たり約0.5時間減少することが示された(研究対象期間の日本の平均は13.5μg/m3)。また、こうした労働時間の減少は、主に出勤日数の低下により引き起こされており、一方で出勤した日の一日当たり労働時間には影響がないことも示された。さらに、こうした効果は大気汚染における低水準、たとえば日本の環境基準である年平均15μg/m3を下回るPM2.5濃度であったとしても観測されることが示された。加えて、こうした効果は産業や企業規模によっても異なった。製造業や、外での労働も多い建設業、あるいは中小企業などでは効果が強く見られた一方、サービス業や大企業では比較的効果は限定的であった。
全国年間当たり7600億円の損失
月間平均PM2.5濃度の1μg/m3の上昇によるこれらを通じた労働時間の喪失は、全国の賃金労働者数や平均生産性を加味すると、全国年間当たりで7600億円の損失(研究対象期間の貨幣基準による)に相当するものであり、先進国の比較的低水準の大気汚染であっても経済的損失が発生していることを示唆している。このことは逆に言えば大気汚染が低水準であっても、さらなる大気汚染削減によって経済的便益が発生しうることを示唆する。
今後、労働時間だけでなく「労働生産性」への影響分析へ
今回の研究は、大気汚染が直接の健康被害だけでなく、労働時間の喪失という形で社会的・経済的被害を発生させていることを示した。これは日本国内における政策含意をもたらすだけでなく、他の先進国においても同様の経済的損失が発生している可能性を示唆する。また東アジア地域における大気汚染が国境を越えて広がっていることを考慮すると、地域全体としての大気汚染対策の議論に対しても示唆を与えるものとなっている。実際近年は、東アジア各国での大気汚染対策や脱炭素に向けた取り組みの結果として、日本国内におけるPM2.5濃度は低下傾向にある。しかし、依然としてWHOの新ガイドライン値より高い濃度となっており、今回の研究はさらなる大気汚染削減が、健康被害だけでなく多額の経済的被害も軽減することが可能であることを示唆するものだ。
今後の展開としては、労働時間だけでなく労働生産性への影響を分析することが課題の一つである。すなわち、同研究では仕事を休んだり、仕事量を減らしたりした人への影響を分析しているのだが、PM2.5に暴露されながらも仕事を休まず働き続けた人に対する影響は同研究の対象外となっている。これを分析することにより、大気汚染の労働への影響を包括的に議論することが可能になると考えている、と研究グループは述べている。
▼関連リンク
・広島大学 プレスリリース


