脳の「内部モデル」はどのようにして情動情報を推測しているか?
理化学研究所は5月15日、ある体験に伴って生じる「うれしい」「不快だ」といった情動情報から、別の体験をする際に生じるであろう情動情報を推測する際に働く、脳の内部モデルの計算メカニズムの一端を初めて明らかにしたと発表した。この研究は、同研究所脳神経科学研究センター学習・記憶神経回路研究チームのジョシュア・ジョハンセンチームディレクターとシャオウェイ・グ研究員らの研究グループによるもの。研究成果は、「Nature」のオンライン版に掲載されている。

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「うれしい」「楽しい」または「不快だ」「恐い」といった情動体験の記憶は、ヒトを含む動物の生存に不可欠だ。過去に経験していない新しい感覚刺激が「楽しい」体験を引き起こすのか、それとも「不快な」体験を引き起こすのかわからない状況においても、動物は引き起こされる情動体験を推測して適切な行動を取る必要がある。
心理学では、こうした高次な情動情報の推測は、過去の体験における状況と現状とを比較する脳の「内部モデル」と呼ばれる外部世界の仕組みを脳の内部で模倣・シミュレーションする神経機構によって行われているという理論が提起されてきた。しかし、実際にこの情動情報の内部モデルがどのような計算メカニズムで情動情報の推測を行っているのかは明らかではなかった。
研究グループは、情動記憶を担う扁桃体や、環境情報の記憶に関わる海馬、眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)、嗅周皮質、嗅内皮質といった領域とも結合している背内側前頭前野(dorsomedial prefrontal cortex:dmPFC)に着目し、情動情報の内部モデルを担う脳領域の有力な候補の一つと考えた。
ラットを用いてdmPFCの役割を検証
今回の研究では、「dmPFCで構築される柔軟な内部モデルによって、情動的な体験と直接結び付いていない感覚刺激に対しても、起こり得る情動体験を推測している」という仮説を立て、ラットに「感性予備条件付け」と呼ばれる実験パラダイムを実施した。
感性予備条件付けを行うため、まず1日目に予備条件付けとして、環境Aの中でラットに光と音という2つの中立な感覚刺激を対にして、同時に提示した(対提示群)。一方、コントロールとして対提示群と同じ回数の光刺激と音刺激を、同時ではなくバラバラにラットに提示した(非対提示群)。その後、別の環境Bの中で、対提示群・非対提示群ともに、光刺激と同時に不快な体験を引き起こす軽い電気ショックを足に与えた(嫌悪条件付け)。
2日目に、対提示群と非対提示群ともに最初の環境Aの中で、光刺激だけ、または音刺激だけを提示した。その際のラットのすくみ反応の時間を計測し、それぞれの感覚刺激に対して不快な体験の記憶が連合しているかどうかをテストした(想起)。
「内部モデル」により直接体験していない刺激からも情動体験を予測できるようになる
その結果、光刺激に対しては対提示群・非対提示群ともにすくみ反応を示したが、音刺激に対しては対提示群だけがすくみ反応を示した。これは、ラットが光刺激と音刺激の連合を記憶した後に、光刺激と不快な体験を同時に経験したことにより、不快な体験と直接結び付いていない音刺激に対しても不快な体験を推測し、すくみ反応を示したことを示唆している。
このことから、ラットは感覚刺激と不快な体験の連合という情動情報の「内部モデル」を脳内に構築することで、直接不快な体験をしていない感覚刺激に対して、情動体験を予測することができるようになったと考えられる。
情動情報の内部モデルはdmPFCの神経細胞の活動によって構築される
次に、このような情動情報の内部モデルがdmPFCの細胞の活動の変化によって構築されるという仮説を立て、感性予備条件付けをしている最中のラットの脳のdmPFCの神経細胞群の活動をカルシウムイメージング(神経細胞の活動をリアルタイムで可視化する技術)によって記録した。
興奮性神経細胞特異的にカルシウム感受性蛍光タンパク質(GCaMP)を発現させるアデノ随伴ウイルスをラットのdmPFCに注入し、その後ラットの光や音の感覚刺激に対するdmPFCの神経細胞の活動の変化を追った。感性予備条件付けの各段階で、対提示群では平均605±146個、非対提示群では平均566±82個の神経細胞の活動をカルシウムイメージングによって記録した。
光や音の感覚刺激に対して活動が亢進する神経細胞と、抑制される神経細胞に分けて解析したところ、音刺激に対する活動は、予備条件付けにおいては対提示群と非対提示群の間で差がなかった。一方、嫌悪条件付け後の想起時においては、対提示群が非対提示群に比べて活動が亢進していた。光刺激に対する活動は、予備条件付け時においても、また嫌悪条件付け後の想起時においても、対提示群と非対提示群の間で差が見られなかった。
嫌悪条件付けにより光と音の両方に反応する神経細胞が増加する
このことから、研究グループは「dmPFCの神経細胞による光刺激の表象と音刺激の表象の間での連合が、予備条件付けと嫌悪条件付けの両方を体験したときのみ形成される」と仮定した。これを検証するため、対提示群において、予備条件付け後ではなく嫌悪条件付け後に、光刺激と音刺激の神経細胞の活動パターンが類似してくるのかを解析した。
dmPFCの神経細胞のうち、光刺激のみで活性化される細胞を「光反応性神経細胞」、音刺激のみで活性化される細胞を「音反応性神経細胞」、光刺激と音刺激の両方で活性化される細胞を「共反応性神経細胞」と分類した。その結果、嫌悪条件付けの後では、共反応性神経細胞と音反応性神経細胞の数が、非対提示群に比べて対提示群で有意に増加していた。さらに、対提示群では、嫌悪条件付けの前よりも後で共反応性神経細胞の数が有意に増加していた。
従来の理論では感性予備条件付けは説明できない
このような感性予備条件付けが起こる仕組みとして、心理学では「媒介学習」が提唱されている。この理論によれば、光刺激と音刺激の予備条件付けは、脳内で両者が結び付いた表象を形成する。その後、光刺激の表象が電気ショックと結び付き、想起の際に音刺激から電気ショックの情報を推測することが可能になると考えられている。しかし、光刺激や音刺激に対するdmPFCの活動上昇や抑制は、予備条件付けでは生じなかった。
そこで研究グループは、特定の共反応性神経細胞群が、予備条件付けの間に細胞群全体の活動には影響を与えない形で「標識」され、その後、光刺激と電気ショックとの連合によって「捕捉」されて電気ショックの表現と選択的に結び付き、共反応性神経細胞を介して音刺激と不快な体験の表象との連合が実現する、という仮説を立てた。
情動情報の推測にはdmPFCの興奮性神経細胞の活性化が必要
この仮説を検証するため、予備条件付けの最中に光遺伝学(特定の神経回路機能を操作する技術)により、dmPFCの興奮性神経細胞の働きを抑制した。その結果、直接嫌悪条件付けをした光刺激による想起ではすくみ反応が見られたのに対し、音刺激によるすくみ反応は有意に減少した。また、嫌悪条件付けの最中に同様にdmPFCの興奮性神経細胞の働きを抑制したところ、同じく光刺激による想起ではすくみ反応が見られたのに対し、音刺激によるすくみ反応は有意に減少した。
これは、予備条件付けおよび嫌悪条件付けにおけるdmPFCの興奮性神経細胞の働きが、情動情報の推測に重要な役割を果たしていることを示唆している。予備条件付けの間にdmPFCの興奮性神経細胞の活動性が変化することで「標識」され、それらの神経細胞が嫌悪条件付けの間に「捕捉」され、情動情報の推測を可能にしているという仮説を支持するデータといえる。
扁桃体がdmPFCから情報を受け取り、情動反応を実行する
最後に、情動反応に重要な役割を果たしている扁桃体が、dmPFCの内部モデルから情動情報の推測に関する情報を受け取っているかどうかを調べた。dmPFCの興奮性神経細胞のうち、扁桃体につながっている神経細胞の末端に対して光遺伝学を用いることで、扁桃体に連絡しているdmPFC神経細胞の活動を抑制した。
その結果、扁桃体に連絡しているdmPFC神経細胞の活動を想起時に抑制すると、音刺激に対するすくみ反応が有意に減少した。このことは、扁桃体がdmPFCから情動情報の推測に関する情報を受け取り、すくみ反応という情動反応を実行していることを示している。
高次な情動メカニズムの解明につながる知見、精神疾患の治療法開発にも期待
今回の研究で示した「内部モデル」の計算メカニズムは、少ない経験から情動体験を予測することができる高い柔軟性を備えた効率の良い仕組みであり、こうした内部モデルの計算メカニズムを解明する研究は、少ないエネルギーで機能できる脳特有の仕組みの理解につながるといえる。
何らかの情動体験と直接連合していない感覚刺激からその情動情報を推測する能力は、動物の生存に不可欠だ。この能力によって動物は、例えば怖い体験をした状況と関連付けられる感覚刺激に遭遇するだけで、実際に怖い体験をしていなくても「怖い体験をするかもしれない」と推測して、危険を回避することができる。一方で、不安障害やPTSDのような精神疾患においては、嫌な体験や怖い体験と直接結び付いた感覚情報だけでなく、直接結び付いていない感覚情報によっても恐怖体験の記憶が呼び起こされてしまい、日常生活に支障を来すことがある。
「本研究は情動情報の推測に関わる脳の内部モデルの構築の仕組みの一端を解明した初めての成果。ヒトに見られるような高次な情動に関わる脳内の計算、回路や可塑性のメカニズムの研究への扉を開き、臨床研究への橋渡しとなるものだ。将来的には不安障害やPTSDのような疾患の治療法の開発にもつながることが期待される」と、研究グループは述べている。
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・理化学研究所 プレスリリース