匂いの価値を認識する神経細胞や回路メカニズムは不明だった
理化学研究所は9月18日、ショウジョウバエを用いた研究により生得的な匂いの価値(快・不快)を計算する脳内の細胞を同定し、快・不快の情報は異なる回路メカニズムによって生成されることを明らかにしたと発表した。この研究は、同研究所脳神経科学研究センター知覚神経回路機構研究チームの染谷真琴特別研究員、太田和美テクニカルスタッフ、風間北斗チームディレクターらの研究グループによるもの。研究成果は、「Cell」のオンライン版に掲載されている。

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動物は、感覚刺激の価値に基づいて適切な行動を選択する。例えば、快い食べ物の匂いを感じれば接近行動を取り、不快な天敵や腐敗した食べ物の匂いを感じれば忌避行動を取る。このような感覚刺激の価値を認識する機能とそれに基づく行動選択は生存に必須であり、ヒトを含む多くの動物に生まれつき(生得的に)備わっている。
哺乳類の脳の嗅覚回路では、1次中枢で匂いの物理化学的な性質が符号化され、その情報を受け取る高次中枢において匂いの価値情報が抽出されることが示唆されている。しかし、これまで高次中枢において匂いの価値を符号化する細胞は確認されていなかった。
哺乳類と類似した構造と機能を持つショウジョウバエの嗅覚回路においても同様の仮説が提唱されている。行動遺伝学的な研究から、「側角」と呼ばれる高次中枢が生得的な匂いの価値情報を符号化することが示唆されているが、生理学的な実験による実証は行われていなかった。
今回の研究では、ショウジョウバエを用いて、快・不快という生得的な匂いの価値を計算する細胞の同定と、その回路メカニズムを明らかにすることを目指した。
ショウジョウバエを用いて高次中枢で匂い応答に関わる細胞活動を網羅的に計測
ショウジョウバエで実験を行う利点は主に3つある。1つ目は、匂いに対して明確な忌避や誘引行動を示すため、その動物にとっての生得的な匂いの価値を評価できること。2つ目に、種々の遺伝学的技術が確立されているため、細胞活動の計測や操作が可能であること。3つ目に、脳が小さいため、各脳領域に存在する細胞群の活動を網羅的に記録できることが挙げられる。
研究グループは、カルシウムイメージング法と光遺伝学を組み合わせて、側角の神経細胞(側角細胞)の活動を網羅的かつ特異的に記録する新しい計測技術を開発した。この手法を空間解像度が高い2光子顕微鏡下で適用し、快から不快までのさまざまな価値を持った匂いに対する応答を全ての側角細胞で計測した。比較対象として、もう1つの高次嗅覚中枢であるキノコ体の細胞集団からも匂い応答を計測した。
側角で匂いの快・不快に対応する2つの神経細胞集団を同定
その結果、側角の2つの異なる神経細胞集団が、それぞれ特定の匂いの価値を符号化していることを見出した。1つは、快い匂いにのみ応答し、その応答の大きさが快の度合いと相関する集団であり、もう1つは不快な匂いにのみ応答し、その強さが不快の度合いと相関する集団だった。
神経細胞集団の活動から匂いの価値を予測する数理モデルを作成したところ、キノコ体よりも側角の活動を用いた方が、予測精度が高いことが判明した。さらに、この精度は1次嗅覚中枢の神経応答を用いた場合よりも高いことから、側角が生得的な匂い価値を計算する中枢であることが示唆された。
コネクトーム解析で側角における匂い特異的な神経回路メカニズムを特定
次に、こうした快・不快特異的な応答がどのような神経回路メカニズムによって生み出されるのかを、コネクトームを用いて解析した。コネクトームとは、動物の神経系内の各要素(神経細胞、神経細胞群、脳領域など)の間の詳細な接続を表した神経回路の地図である。同研究では、ショウジョウバエの脳の片半球を対象に、電子顕微鏡のデータを用いて神経細胞同士の接続パターンや細胞間につくられたシナプスの数などの情報を格納したデータベースを用いた。
解析の結果、1次嗅覚中枢には快い・不快な匂いに対する行動選択に貢献する神経細胞が存在するが、これらの神経細胞は特定の側角細胞と選択的に結合することがわかった。さらに、この側角内部の結合を解析すると、快い匂いに関する入力を受け取る側角細胞集団において、側角細胞同士の抑制性結合が顕著に観察された。これは、「快い」という情報が1次嗅覚中枢からの入力に加え、局所的な抑制性回路によって処理されることで初めて生成されることを示唆している。
快い匂いの符号化には局所抑制が必須、神経ネットワークモデルで判明
この仮説を検証するために、コネクトームに基づく神経ネットワークモデルを構築した。モデルに実際の1次嗅覚中枢の匂い応答を入力すると、快・不快の匂いに特異的に応答する側角細胞の活動が再現された。モデルから局所抑制を除くと、不快な匂いに応答する側角細胞は残るものの、快い匂いに応答する側角細胞が消失した。このことから、不快な情報の符号化には1次嗅覚中枢からの入力で十分なのに対して、快い情報の符号化には1次嗅覚中枢からの入力に加え、局所抑制が必須であることが明らかになった。
さらに、この局所抑制の大きさは興奮性入力の大きさと一致しており、興奮・抑制のバランスが快の度合いに比例した応答を生成することが示唆された。一方で、不快な匂いに特異的に応答する側角細胞では、興奮性入力と一致した抑制は見られなかった。
側角が匂いの価値判断を行う中枢、神経ネットワークモデルの予測を個体レベルで実証
以上の脳のメカニズムに関する結果はネットワークモデルから推測されたもので、実際のショウジョウバエを用いて検証する必要がある。そこで研究グループは、次の3つの実験を行った。
まず、ネットワークモデルで生成された神経活動の予測精度を検証した。カルシウムイメージング法により個々の側角細胞の匂い応答を計測して、モデルで生成された応答と比較したところ、有意に一致する結果が得られた。
次に、局所抑制回路を人為的に操作した際の神経活動の変化を検証した。モデルでは、局所抑制を弱めると快い匂いに強く応答する側角細胞が減少し、不快な匂いに応答する側角細胞が増加することが予測された。薬理的に抑制を減衰させて側角の活動をカルシウムイメージング法で計測したところ、予測と一致した結果が得られた。この神経活動の変化は匂いで引き起こされる行動にも反映されると考えられた。
最後に、局所抑制を操作した際の行動出力への影響を検証した。モデルでは、側角における一部の抑制性介在神経細胞の活動を弱めると、全ての匂いに対する行動がより忌避性にシフトすることが予測された。光遺伝学的手法によりこの抑制性介在神経細胞の活動を人為的に低下させた際の匂いに対する行動を仮想空間上で計測したところ、計測された匂い応答は予測と一致し、全ての匂いにおいて忌避性が増加していた。
これらの結果から、ショウジョウバエの側角が生得的な匂いの価値を計算する中枢であり、快と不快の情報が異なる神経回路構造によって生成されることが明らかになった。この知見は、感覚刺激がどのように脳内で処理されることで情動や行動が生み出されるのかという根本的な問いに対して重要な示唆を与えるものである。
普遍的な脳内情報処理過程の解明につながる成果、脳のデジタルツイン実装にも重要な意義
嗅覚系の構造と機能は、哺乳類と昆虫で高度に共通していることが知られている。今回のショウジョウバエでの研究成果は、生得的な匂いの価値を認識し、適応的な行動を取るために必要な、普遍的な脳内情報処理の理解につながることが期待される。
また、今回の研究では網羅的な神経活動計測とコネクトームを活用したネットワークモデルを組み合わせることで、神経活動および行動出力の予測と再現に成功した。これは、複雑な脳の機能を仮想空間上に再構築する脳のデジタルツイン(現実空間のシステムをサイバー空間上に再現すること)の実装に向けて、大きな前進を意味する。
「本研究の手法と知見を他の脳領域や動物種に適用することで、脳の情報処理とその仕組みの解明が一層進展し、将来的には既存の人工知能(AI)とは異なる動作原理に基づく脳型AIの開発への波及効果も期待される」と、研究グループは述べている。
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・理化学研究所 プレスリリース


